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人を生かすねたみ?


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Rejoice Exceedingly with Great Joy, 2022 (3rd painting of Love Series Paintings)

Artwork inspired by Matthew 1:10

Keiko Yamada

Acrylic Painting on Canvas

24 x 30 inch


愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません

愛は自慢せず、高慢になりません。

礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、

人のした悪を思わず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。

すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、

すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。

第一コリント人への手紙13章4−8前半


愛は人をねたまないとはどういう意味だろう?と考え始めた頃、ちょうどクリスマスの時期でした。だからこそ、妬みとクリスマスは意外なつながりがあることに気がつきました。その只中生まれたこの絵の作品の背景について、皆さんとシェアしたいと思います。


クリスマスと言えば、綺麗なデコレーション、美味しいもので溢れている祝日のように見えます。でもその背後ではびっくりさせられるほど「ねたみ」でドロドロの日でもあったことをご存知でしょうか。


イエスキリストがベツレヘムでお生まれになっていた頃、その地を統治していたヘロデ王に、東方の博士たちがこのように言いました。


「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。

私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」

マタイの福音書2章2節


ヘロデ王は恐れ惑いました。「ちょっと待て、ユダヤ人の王はこの私であるはずなのに!」(参照:ルカの福音書1章5節)


その後王はそのユダヤ人の王である赤ん坊を探し出して殺してしまおうとしますが、その企みは見事に失敗に終わりました。腹いせに、王はベツレヘムとその近辺の2歳以下の男の子をひとり残らず殺させてしまったのです。


📖 PAUSE & REFLECT(妬みの破壊力)

大人になられたイエスキリストは特に熱心な宗教家たちの妬みによって十字架につけられました。

「ピラトは、彼らが妬みからイエスを引き渡したことに気づいていたのである。」

マタイの福音書27章18節


なぜイエスキリストはそこまで妬まれたと思いますか。



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決して他人事ではない妬み


「ヘロデ王って、妬みで赤子まで殺してしまうなんて恐ろしいわね、全く!」と言って妬みの恐ろしさを完全に他人事ですませてしまうことができたら問題はありません。


でも、私たちの心の中をよ~く覗いてみるとヘロデ王のように実際に殺していなくても、心の中で誰かを妬む、誰かの存在を煙たがる、消したがる、つまり殺したがる時はないでしょうか。「あの人さえいなければいいのに。」とまでもいかなくても、「なぜあの人には~があって、私にはないのか。」という妬みを微かに感じる時はないでしょうか。


そんな嫉妬に恥ずかしさや罪悪感を感じる時もあるかもしれません。でも、驚いたことに、私たちを創造された神様は、そんな私たちを妬むほどに愛されているのです。


📖 PAUSE & REFLECT — 人の妬みと神の妬み

驚いたことに、出エジプト記34章14節で神はご自分が「妬む神」であると言われています。人の妬みとかみの妬みの違いはなんだと思いますか?


「あなたはほかの神を拝んではならないからである。

その名がねたみである主は、妬む神であるから。」

出エジプト記34章14節

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妬むほどに私たちを愛される神

出エジプト記34章14節によると、神様のねたみが聖書の中で一番明らかにされているのは人間が偶像礼拝している時です。「愛は人を妬みません」と書いてあるのに、愛であられる神様が妬んでる、これは矛盾じゃないか?と思っても不思議ではありません。


人の妬みは、たとえ相手が滅んでも欲しいと思うものをあらゆる方法で自分のものにしようとします。でも、神の妬みは、全てのものが神様のものであるにも関わらず、神は、その人が自分の意志でかみを選ぶのを待たれるのです。罪深い、自己中心的なねたみと違って、相手の意志を無視することはありません。


ここで私たちは性質的に人間と神が全く違うことも思い出さなければいけません。神様は人間とは違い、変わることのない、全く聖なるお方、非の打ちどころのないお方です。だからこそ、「聖なる妬み」というものを持っておられるのです。私たちが日常に感じる「罪深い、自己中心的な妬み」とは次元が違います。


私たちを創造された神様だからこそ、”あなたは私のものだ”ということができ、そのような聖なる妬みを私たちに向けられることはある意味自然なのです。


📖 PAUSE & REFLECT (God's Jealousy toward us)

夫婦関係にある妻が、夫ではない男を追いかけて行くのを見て、「お~違う男のところに行くのか、いってらっしゃい」と妬みを全く感じることなく言うわけがありません。

だからこそ神様は聖なる妬みで偶像を憎み、神を捨ててその偶像を慕う私たちが滅びるのに、心を痛めておられます。


偶像というものは何かを与えてくれそうに見えて私たちから命を奪い取ります。それとは反対に、神の妬みは「命懸けで私たちを生かそうとする神の熱心さ」です。そのような「聖なる妬み」があなたに向けられていることに対してどう思いますか。


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星(キリスト)に目を向けて喜ぼう


私たちがそれぞれの人間的な妬みを捨てられる完全なる方法、それは私たちが周りの人が

持っているものを見るのではなく、私たちを妬むほどに愛しておられる神様に目を向けることです。


神の妬みは再び私たちをご自分のところへ戻らせるために強制的に私たちを連れ戻すのではなく、私たちが戻ると決めた時に必ず戻れるように道を開いておいてくださったのです。罪深い肉と同じような形で御子キリストを遣わされたのです。その御子キリストを表す星を見て、「。。。彼ら(博士たち)はこの上もなく喜んだ。」のです。


博士たちは東のほうで、メシアの星を「見た」のでメシアを拝みに来た、と2節に書いてあります。その同じ星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまります。(9節)彼らはその星を見て、この上もなく喜びました。


その同じ瞳で彼らは母マリヤと共におられる幼子を「見」ます。そしてひれ伏して拝みます。


私たちは今日何を見て歩んでいるでしょうか?



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今日の絵はマタイの福音書2章10節より着想を得ています。


その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。

マタイの福音書2章10節


時々私たちは周りの人が持っているものに目を向けすぎて、妬みが積み重なっているところはないでしょうか?私たちは再び目をメシアの星に向けたいと思います。イエスキリストは2000年前に、もうすでに赤子としてこの地上に来てくださり、十字架の上で私たちのために死なれ、復活してくださいました。そのことを再確認し、また喜びたいと思います。人間的な妬みから解放され、イエスキリストを抱きしめ、喜びで満たされて貯めていきましょう。神様が妬むほどに私たちを愛されておられるからです。


🌱🌱🌱


読んでくださりありがとうございます!God bless you!






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