本当に信じて良いのか?
- Keiko Yamada

- 9月19日
- 読了時間: 7分
更新日:9月29日

Trust, 2023 (12th painting of Love Series)
Keiko Yamada
Acrylic Painting on Canvas
20 x 24 inch
愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。
愛は自慢せず、高慢になりません。
礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、
人のした悪を思わず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。
すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、
すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。
第一コリント人への手紙13章4−8前半
「愛の讃歌」として有名なこの聖書の言葉。心を打たれる方は多いと思います。
私にとっても、長年好きな聖書の言葉の一つです。
でも、ある日ふと「愛はすべてを信じ...」に目がとまって、正直ちょっと戸惑ってしまいました。
「愛はすべてを信じ...」
え!それって危なくない!?😨
たとえば、
「聖書に「愛はすべてを信じる」と書いてあるだろ?だから、俺のこと信じて金貸してくれよ」って、毎回お金を貸しては絶対返してこない人に言われたらどうでしょう?
あるいは、
「愛はすべてを信じるんだから、キリスト教だけじゃなくて、寛容にイスラム教も仏教も信じなさいよ!」とか言われたら?そもそも「神」がどのような方かそれぞれ違う信仰や宗教を同時に信じるのも不可能なことです。
つまり、どう考えても「すべてを信じる」って、現実的に不可能か、あるいはかなり危険ではないでしょうか。
でも、ここで大事なのは「文脈」です。
小説を文脈無視して読む人がいないように、聖書も同様です。
実際には、「愛はすべてを信じる」だけで、愛が定義されているわけではありません。
他の14の特徴も含めたものが「愛」なのです。
もし「盲目的に全部信じる」という意味にしてしまったら、他の特徴、例えば「不正を喜ばず、真理を喜びます」などを完全に無視することになります。
つまり「なんでも鵜呑みにして騙されろ」と言う意味ではありません。
では、この文脈で聖書が語る「すべてを信じる」とは、どういう意味なのでしょうか。
📖 ⑴ PAUSE & REFLECT(思い巡らす)すべてを信じる愛
なぜ「すべてを信じる」が愛の定義として含まれていると思いますか。
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この絵画はそのことを考えた時に特に思わされた聖書箇所(箴言3章5節)から着想を得たものです。
心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。
箴言3章5節
自分が何かを「悟った!」と感じた時、すごく気分が良くなりませんか?
「ああ、そういうことか!」と世界の仕組みを全部わかったような気になるあの瞬間です。
そして、その”悟り”をもとに、いろんなことを信じたり、語ったりします。
でも、ほとんどの場合、その”悟り”は不完全なものだったり、間違えである時があります。
いざという時に頼ることができない時があります。
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「あなたならできる」
この言葉を耳にしたことが一度はあると思います。
これも、大抵それぞれの”悟り”によって語られるものだからこそ、相手にとって全く無力な時もあれば、絶望の中にいる人の魂を奮い立たせるくらいの励ましになる時もあります。
私自身、20代半ばの頃にひどい燃え尽き症候群になった時期がありました。
その時、ある友人が「けいこは絶対に立ち直れる。今の状態で決して終わることはない。イエス様はきっとすべてを最善にしてくださる!」 と、長い間私が立ち直れるまでいろんな言動をもって励まし続けてくれました。
「もう私にはもう無理だ。」と消極的に生きていた私を、彼女は優しさをもって、
「あなたならできる」、と私を信じ続けてくれました。辛抱強く、言葉よりも態度で。
絶望のどん底にいた私の「最善」を彼女が「信じてくれた」から、今の私がいるんだなと強く思います。
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ここに出てくる「愛はすべてを信じる」と言う聖書のことば。
これは、人間が気分で与えたり取り消したりする愛ではなく、アガペの愛、つまり神だけが持つ、変わらない愛のことです。
それは、イエス・キリストが示してくださった愛の姿でもあります。
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キリストの信頼によって再び立ち上がったペテロ
イエス様の12弟子の一人ペテロは、自分ならイエス・キリストに牢獄でも死でも最後までついていけると、1ミリも疑っていませんでした。
だからこそ、すべてを知っておられたイエス様から「いいえ、あなたは3度私のことを裏切ることになる」と言われた時、きっと耳を疑ったと思います。
でも実際には、イエス様が捕らえられた直後、その通りに3度も否認してしまいました。
牢獄どころか、そばにいることすらできなかったのです。
その時の彼は、きっと情けなくて、自分を責めて、イエス様に対して申し訳ない気持ちでいっぱいだったことでしょう。
でも、イエス様はそんな出来事が起こる前に、すでにこう言われていました。
しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。
だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。
ルカの福音書22章32節
これこそが、イエス様がペテロに寄せてくださった信頼です。
「ペテロ、あなたならできる」
それはペテロの弱さを無視した楽観主義ではなく、神の摂理に基づいた信頼でした。
神は、私たちの弱ささえも益に変えることのできるお方だからです。
実際にペテロは、この経験を通して大切なことに気づきました。
自分を過大評価し、神を過小評価していたということです。
そして、一番最悪な自分をも信じてくださったイエス様を思った時、彼の心は大きく奮い立ったはずです。
「イエス様の愛に応答したい。その信頼に値するほどの人間になりたい。」
その決意が、後のペテロを形作っていきました。
イエス様がまいてくださった”信頼の種”は、彼の人生の中で、そしてこれから彼が出会う人々の中で大きな実を結んだのです。
📖 PAUSE & REFLECT(思い巡らす)イエス様の愛
全てを最善にしてくださる神を信じる愛とは、私たちの生活の中で、生き様において、具体的にどのようなものだと思いますか。
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その同じ愛が私たちにも注がれています。私たちのすべての弱さや汚れを知った上で、そのために十字架で死んで復活してくださったからです。
キリストのゆえに、私たちのすべてを良しとし、私たちの「すべてを信じて」益にしようとしてくださっている神の愛に心を尽くしてより頼む人生はなんと幸いでしょうか。
私たちは人間として、信頼する対象に「より頼む」ようにデザインされています。だからこそ、聖書は心を尽くして主により頼めと奨励しているのです。
心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。
箴言3章5節
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📖 PAUSE & REFLECT(思い巡らす)~私たちが見えていないところ
箴言3章5節は、自分の悟りを無視しろ、と言っているのではありません。
もちろん、素晴らしい悟りもあります。私たちの人生において、この絵画のように綺麗なピンクの花を満開させる悟りもたくさんあります。

しかし、悟りで終わるな、という意味です。今の自分をもとに得た情報や要約で終わるのではなく、神との生きた関係を育て続けなさい、と言う意味です。
この絵画のように、見えないところにおられる神がおられるところに根を思いっきり伸ばすことです。

私たちは何かを悟ると、それが全てだと信じ、それだけを頼りにしてしまう時があります。
もう悟った、わかりきったと思ってしまっているものはありませんか。
例:よく聞く聖書箇所をわかりきったと思ってしまっている、ある特定のグループに対する固定概念、など
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📖 PAUSE & REFLECT(思い巡らす)~私たちにとっての肥やし
私たちは、新しい状況やチャレンジに置かれることによって、今まで知らなかった自分を知る時があります。時には「やっぱり私はこの仕事が好きなんだ!」と夢が開かれる瞬間だったり、「なんて情けない自分!」と自分に失望したり色々あリます。
ペテロのように、神様が最近私たちに気づかせてくださっている自分の限界や弱さはなんでしょうか。
そこで、自分の悟りではなく、心を尽くして神様により頼むことができることは何でしょうか。
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最後まで読んでくださって、ありがとうございます。^^




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