「目からウロコが落ちる」ということわざがあります。これは、ある時あることをきっかけ
にして急に物事の真相や本質がわかるようになることを言います。これは聖書から出た言葉です(使徒の働き9:18)。この言葉の他にも聖書には「目」に関する記述が数多くあります。
例えば、イエスが盲人の目を癒された話、目が悪いと体も暗くなると教えられた話(この場
合は肉体の目ではなく心の目という解釈)、エマオ途上の弟子たちの目をイエスが開かれた
話、黙示録では「豊かな者となるために目が見えるようになるための目薬を買いなさい」と忠告されています。このように、目に関する箇所は書き出したらキリがありません。なぜ、そんなにも聖書は「目」にこだわるのでしょうか。それは、私たちには、肉体の目のほかに「心の目」があるからだと言えます。人は「心の目」によって見ているものの本質や真理を悟ると言えるでしょう。実際、私たちは、目に映っていても、見えていなく、聞こえていても聞いていないことが多くあるのではないでしょうか。
私の友人の話です。ある日、目の不自由な兄弟と友人達で登り慣れているいつもの山へハイ
キングに出かけました。楽しくてつい足を伸ばしすぎ、帰途につく時間が遅くなり日が暮れ始めました。慣れているはずの山道でしたが、暗くて道に迷ってしまったそうです。ところが、その時「大丈夫だよ」と言って、先頭を進んだのが目の不自由な彼の兄弟だったというのです。何も見えない彼がみんなを道案内し、全員無事に下山できたと話してくれました。この話から、人には誰でも肉体の目のほかに、もう一つ「心の目」があることがわかります。またその目が健全であることが非常に大事であることもわかります。聖書の神は、その「目」のことを言われているのです。エペソ書1章18節で著者パウロは、人々の「心の目」がはっきり見えるようになることを望んでいる言っています。
「心の目」を働かせて物事を見た人がいます。旧約時代の預言者エレミヤです。彼が目の前
にあるアーモンドの枝を見ていた時、主がエレミヤに「あなたは何を見ているのか」と語りかけられました。エレミヤは「アーモンドの枝です」と答えましたが、主はアーモンドの枝を通してご自身がお語りになりたいことを心の目で見るように促されたのです。アーモンドの枝を通して、エレミヤが預言者としての召命を受けたことと、そのエレミヤを主が見ていてくださることを、主は同時に啓示されました。アーモンドのへブル語は「シャケド」です。シャケドは「目覚める」という意味があります。エレミヤが預言者として目覚める
ということです。また、似ている発音で「ショクェド」という言葉があり、それは「見張っている」という意味があります。主は語呂合わせによって、アーモンドという言葉に二つの意味を込めてエレミヤに語りかけられました。エレミヤはそれを「心の目」で見、主の啓示を悟ったのです。
私たちの日常に起こる出来事の中にも「あなたは何を見ているのか」と主は語りかけられま
す。日常の楽しい出来事の中に、困った出来事の中に、また、苦しい場面の中に、悲しい場面の中に私たちは何を見出すでしょうか。そこに何を見出すかは、私たちの「心の目」によるのです。
人に与えられている「心の目」は、神を見出すための「目」だと言えます。その目によっ
て、私たちは、神がどのようなお方かを悟ります。また、自分の置かれている状態がどのようなものなのかを見出すのです。「心の目」によって神を見出すことができたらどんなに幸いなことでしょうか。
では、どのようにして心の目は見えるようになるのでしょう。それは、聖書のみことばによ
ります。みことばにより私たちの「心の目」は見えるようになり、みことばに触れ続けることにより健全に保たれます。
今の時代、どのような世界情勢になろうとも、たとえ暗い時代が来ようとも、「心の目」に
よって神を見出し、物事の本質を見、道に迷わず歩み続けることができたらどんなに素晴らしいでしょうか。その鍵は聖書にあると言えます。
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ぶどうの木国際教会
ハワイホームチャペル
加藤 あや子
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