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執筆者の写真加藤あやこ

裏切りは悪事より悪い


昨今、有名人の不倫や不祥事による記者会見は珍しくありません。 有名人は社会的な模範や理想の象徴とされることが多く、彼らが一般の人々の理想に反する行動を取ると、そのギャップが強調され、失望感が深まってしまいます。たとえ法を犯してなくても、ある一定の期間、表舞台に出られなくなるという社会的罰を受ける結果になります。


しかし、不祥事の深刻さと大衆の反応が必ずしも一致しないことに、しばしば戸惑いを受け

る時があります。一部の人は完全に表舞台から姿を消す一方、他の人は法に触れる行為にもかかわらず、すぐに復帰することがあるからです。これらの違いの背後には、彼らの最初の対応が影響しているようです。具体的には、最初に自己保身のために嘘をついたかどうかです。誤魔化しのための嘘による記者会見をして大衆を欺いた場合、その後の復帰の可能性は低くなります。





例を挙げれば、ある女性バラエティタレントは、会見の事前に不倫相手と交わしたラインメ

ールが暴露され、大衆を欺いていたことが判明し、同じような他の不倫騒動と比べて厳しい評価が下されました。また、あるお笑い芸人は、事務所を介さずに請け負った仕事の報酬について虚偽のコメントをしていましたが、後にその事実を認め、さらなる記者会見を行ないましたが、非難は収まらない状況となりました。


誤魔化しのために嘘をつくと、一時的には事態を収束させるかのように見えるかもしれませ

んが、長期的には信頼を失い、信用を取り戻すのが難しくなります。誤魔化しのための嘘は

「裏切り」として受け取られ、行った事よりも悪い結果をもたらし、人間同士の信頼関係は根本から崩れてしまいます。


旧約聖書で預言者エレミヤが活動した時代、神も人々の裏切り行為について厳しく言及され

ています。その頃、イスラエル王国は、北王国イスラエルと南王国ユダに分かれていました。北王国イスラエルは明らかに、創造主であられる神に叛逆し、偶像を拝んでいました。それにより隣国アッシリヤによって滅ぼされるという神の裁きを受けました。一方、南王国ユダは、北王国に起きた神の裁きが偶像礼拝のための裁きだと知りながら、依然として偶像礼拝を続け、さらにその事を誤魔化すために「私たちは罪を犯さなかった(エレミヤ2:35)」と偽りを口にしていました。


北王国イスラエルの罪は叛逆でしたが、南王国ユダの罪は裏切りだと言われました。裏切り

は、背を向けるよりも悪い(エレミヤ3:11)と言われ、南王国ユダを「裏切りの女ユダ」と厳

しい言葉で指摘されました。


「裏切り者ユダ」と聞いて、聖書を知っている方なら、すぐに思い浮かぶ人物がいるでしょ

う。イエスを売ったイスカリオテのユダです。イスカリオテのユダは、イエス・キリストの弟子としての地位を利用して、イエスを銀貨30枚と引き換えに、ローマ帝国に引き渡し、裏切ったのです。




イスカリオテのユダは罪を犯した後に「私は無実の人の血を売ってしまって罪を犯した」と

言い、その銀貨を受け取らずに神殿に投げ込んでいます。彼は間違いに気づきましたが、自分の犯した罪の大きさに恐れ、首を吊って命を絶ってしまいました(マタイ27:4、5)。


ユダの評価については賛否両論があります。「ユダがいなければイエスの十字架上の死は成

就しなかったのだから、彼はイエスに必要とされ用いられたのだ。だから彼は救われ、天国に挙げられたのではないか」という意見もあります。しかし、私は、ユダの人生を最後まで見て、彼は救われていなかったのではないかと考える者の一人です。なぜなら、その行動から彼はイエスを救い主として信じていなかったと思えるからです。ユダは、裏切り行為の後、自分の間違いに気付いていますが、イエスがどんな罪をも赦される救い主であると信じていなかったのではないでしょうか。もし信じていたなら、自分の罪を告白し悔い改めたはずです。そうしたら赦されたのです。彼はそれをせずに自ら命を絶ってしまいました。つまり、彼はイエスと行動を共にしていながら、そのお方が救い主であると信じていなかったと考えられるのです。


クリスチャンの信仰生活とは、神との壊れた信頼関係を少しづつ築き直すことと言ってもよ

いでしょう。それは、私たちが神から信頼されるためではなく、私たちが神を信頼できるようになることです。私たちは、この世界に生きている以上、罪から逃れることはできません。私たちは皆、罪人です「義人はいない一人もいない(ローマ3:10)」とある通りです。しかし、私たちのどんな罪よりも神の恵みは大きいのです。その罪を告白し主の前に悔い改めるなら、赦されます。人間同士の裏切り行為は取り返しのつかない結果を生みますが、神はその罪さえも、私たちがより神を信頼できるようになるめに用いられるのです。


偶像礼拝によって神に叛逆した北王国イスラエルに対しても、また、それよりも悪く「裏切

りの女」と呼ばれた南王国ユダに対しても、神は「わたしはあなた方を叱らない(エレミヤ3:12「新改訳3版」)と言われ、先に赦しを与えてくださっています。これが神の愛であり、究極の恵みです。


義なる神は、当然罪の代価を求められます。それを私たちへではなく、イエスキリストへ負

わせました。イエスが十字架上で私たちの代わりに神の「叱り」を受けてくださいました。このように神の赦しは、約2000年前に既に与えられています。私たちはこの「赦し」を先に受け取ることにより、自分の罪を誤魔化すことなく、告白することができます。私たちの罪がどんなに大きくても、神様の恵みを無きものにすることはできません。それは、どんなに空が曇っていても、その上に太陽が光り輝いているのと同じです。信じる者は、先に与えられた「赦し」によって、イスカリオテのユダのように、自分の罪は赦されないのではないかと思い悩むことをしません。また、赦されないだろうと恐れ、裏切り行為にあたる、誤魔化しや嘘をつく必要もありません。悔い改めれば赦されるので、心からの信頼関係を創造主なる神と築けるのです。このことはなんと素晴らしいことでしょうか。


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ぶどうの木国際教会

ハワイホームチャペル

加藤 あや子

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