自分の利益を求めない愛
- Keiko Yamada
- 5月23日
- 読了時間: 7分

この「Brimful Light(あふれる光)」という作品は「愛は自分の利益を求めず」(1コリント13章5節)の意味について深く考えた結果生まれた作品です。特に、「自分の利益を求めて何が悪い」という考えが主流のように感じるこの世の中で、「自分の利益を求めない」ことは損するばかりでは?とも思いました。
聖書が愛について語る中で、自慢とか、高慢はともかく、自分の利益を求める、これは別にいいんじゃないか、って思いませんか。
最近特に「自分の利益を求めなくてどうする!」といった感じのメッセージが溢れています。アメリカの広告でも You deserve this! (あなたこそこの商品を楽しむのにふさわしいお方です)と言うフレーズがよく使われています。これを買ったら、これをしたら、私たち自身にとってどのような利益になるのか、ということを頻(しき)りに言って物を買わせる世の中になっています。
しかしながら、この世に全く自分の利益を求めていない人なんているのでしょうか。他の人のため、誰々のため、と言いつつ、本当は自分のためということが多いのではないでしょうか。私も「誰かのために~ができた!」という時さえ、よぉ~く心の中を探ってみると、結局自分がよく見られたい、自分の利益を求めてたわ、としょっちゅう神様に気付かされます。
黙想の問い#1 皆さんご自身は「愛は自分の利益を求めず」(1コリント13章5節)と聞いて何を思いますか。

みなさんは、既にパッケージされた魚や肉を買うときに、緑色のプラスチック製の葉っぱのようなものが入っているのを見たことがあるでしょうか。あれは「葉蘭(ハラン)」あるいは馬蘭(バラン)と呼ばれています。決しておしゃれのためではなく、魚の赤みをより鮮やかに見せる錯覚を生み出すために使われているのです。
色の性質として、正反対の色(補色)を隣同士に並べると、お互いの色がより鮮やかに引き立て合います。赤の補色は緑です。だから、マグロの赤みをさらに赤く見せるために、葉蘭や大葉が入れられるのです。
このような補色の関係は、人間関係や聖書の登場人物にも当てはまるかもしれません。例えば、キリストと民数記22章に出てくるバラムは補色のような関係にあります。
「自分の利益を求めた」欲の塊である闇のようなバラムと、「自分の利益を求めなかった」愛そのものであられる光であるキリストを比べると、それぞれの人物像がより鮮明に浮かび上がってくるからです。
今回の作品、『Brimful Light』 も、このような闇と光の対比がテーマとして描かれています。

黙想の問い#2 バラムが出てくる民数記22章15ー35節を読んでみてください。バラムについてどう思いますか?彼は自分の利益を求めていた人物だと思いますか。それとも違うと思いますか。
バラムについての豆知識:民数記22章をさらっと読むとバラムは敬虔な預言者に見えます。でも、自分の利益だけを求めて、イスラエル人さえも自分の利益のために利用するとんでもない占い師だったことがユダ11節、第二ペテロ2章15、16節、と黙示録2章14節を読むとよくわかるので是非読んでみてください。
キリストとバラムは真逆の人物ですが、どちらもロバに乗ったシーンが聖書に描かれています。二人ともロバに乗ってそれぞれのミッションに向かっていきました。バラムは金と名誉を得るためにバラクの元へと、そしてイエス様は十字架にかかるためエルサレムに行かれました。バラムは自分の利益を求める「欲」という道へ行くことを選び、イエス・キリストは自分の利益を求めないという「愛」の道を行かれたのです。それぞれ求めているものが違っていたので、もちろん最終的に得たものも違いました。キリストとバラムはどちらもロバに乗っていましたが、まったく違う方向へ、違う目的地へ、違う意図と動機を持って進んでいました。バラムは欲望のために自分の利益を求め、キリストは多くの人を救うために自分の利益を求めませんでした。
神の言葉を利用したバラムと神の言葉を成就したキリスト
民数記22章12節で、神はバラムに対して、イスラエルの民を呪ってはならないとはっきりと命じられました。なぜなら、彼らは祝福されているからです。バラムは、バラクのもとへ行ってイスラエルを呪ってはならないという、明確な指示を受け取っていました。
ところが、ここでバラムはずる賢く振る舞います。13節では、あたかも神に止められているから行かないように見せかけています。しかし、実際には最初に提示された報酬以上のものを交渉していた可能性が高いのです。「うーん、神様が行かせてくれないんだ。でももっと報酬をくれるなら、行ってもいいかもね」というような態度です。そうでなければ、なぜ彼らは「…私はあなたを手厚くもてなします。」(17節)や「…今晩ここにとどまりなさい。主が私に何かほかのことをお告げになるかどうか確かめましょう。」(19節)などと言ったのでしょうか?神様の言葉は、すでに十分に明確だったはずです。
しかし、キリストはまったく反対の道を歩まれました。イエスは最後の最後まで神の言葉に従い、預言の言葉を成就されました。そして想像を絶する痛みの中、十字架につけられて死なれたのです。
黙想の問い#3
あなたはこれまでに、神様が「ノー」とはっきり語られたことについて、交渉しようとした経験はありませんか? そのやりとりは、どのように始まったのでしょうか?キリスト・イエスにある者には罪に定められることはありませんが(ローマ8:1)、そのキリスト・イエスにあって私たちは満たされている(コロサイ2:10)ことも再確認してみませんか。もし、私たちが本当にそのことを信じているなら、私たちの何が変わるでしょうか?
2 叩いたバラムと叩かれたキリスト
神がはっきりと「行ってはならない」とおっしゃったにもかかわらず、バラムはろばに乗ってバラクのもとへ向かおうとします(21節)。
ところが、ろばはそれが正しい道ではないことを知っていて、前に進むのを拒みました。するとバラムは、自分の思い通りに動かなかった無実のろばを打ち始めました。神はバラムの過ちに気づかせるため、なんとこのロバに人間の言葉を話す力を与えられます。バラムはその後、「悔い改めた」ように見えます(34節)。しかしそれは、真の悔い改めというよりも、ただその場を逃れようとしただけのようにも思えます。というのも、彼は結局引き返さず、そのまま道を進み続けたからです。もし本当に自分の過ちを認めていたなら、彼は引き返し、進む方向と目的地の両方を変えていたはずです。
バラムとは異なり、キリストは他人を打つことはなさらず、むしろ人々のわがままのゆえに打たれました。十字架で死なれることについても、主は完全に御父の御心に従われました。キリストは打たれ、非難され、つばを吐きかけられました…。
黙想 #4
正直に言えば、私自身、他人を実際に「打った」ことはなくても、心の中で「打っている」ことがあります。例えば、誰かが運転中に強引に割り込んできたとき、思わず心の中でその人を「打ちたくなる」衝動を感じることがあります。皆さんはいかがでしょうか。そういった経験は、私たちがどれほどキリストを必要としているかを、どのように示しているでしょうか?
3 とことん自分の利益を得ようとするバラムと、とことん与えられたキリスト
民数記22章を最後まで読み進めると、バラムイスラエルを呪うことに失敗し、報酬も受け取れなかったことがわかります。彼は策略を変えて、外部からではなく内部から同胞のイスラエル人を滅ぼそうとしました(黙示録2章14節)。民数記25章1~3節によると、バラムはこの策略を実行することに成功したことがわかります。そして最終的には、ヨシュア記13章22節にあるように、彼は剣によって殺され、自ら蒔いたものを刈り取ることとなったのです。
バラムが貪欲を捨てることができなかった一方で、キリストは決して愛をあきらめませんでした。人々に非難され、打たれても、キリストは退きませんでした。ご自分のすべてを、最後の息まで、私たちのために注ぎ出されたのです。それは、私たちに対する愛のゆえでした。

黙想の問い#5
左側にある最も大きく輝く木は、キリストのあふれる愛を表しています。その色彩は天と地に満ちあふれ、キリストがすべての支配と権威のかしらであること(コロサイ2章10節)を象徴しています。このキリストの愛、あふれる光が、すでに私たちに与えられ、今私たちの内に宿っていると信じていますか?私たちはもはや、私たちを満たしてくれそうに見える、ただの反射のようなものを追いかけなくてもよいのではないでしょうか?
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