絶望の声が頭から離れない時
- Keiko Yamada
- 4月21日
- 読了時間: 2分

第一サムエル記1章に出てくるハンナという女性には、いつか子供を産みたいという願いがありました。でも不妊に悩まされている中で、夫 のもう一人の妻ペニンナにいじめられ、更に追い詰められていきます。私たちの人生にも私たちの期待や希望を攻撃する「ペニンナ」という存在がいないでしょうか。 その「ペニンナ」は特定の人の言動、または自分がどのようにうめいても変えることので きない状況かもしれません。 でも、どんな不安も、悲しみも、疑いも心の奥底にもやもやさせて とどめておかなくてもよいのです。ハンナがしたように、それをいつでもどこでも神に注ぎ出す
のです。 聖書の神は、それをすべて受け止めてくださるだけではなく、神が与えようとされる最善なものを受け取れるように私たちの心を造り変えてくださる神です。 この作品には、その神の愛が私たちの心に注がれている様子が描かれています。
この希望は失望に終わることがありません。
なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、
神の愛が私たちの心に注がれているからです。ローマ5章5節
ローマ書5章5節の着想を得て描かれた絵を通して、これらのことを思い巡らしてみませんか。
*第一サムエル記1章を読んだ後に思い巡らすことをオススメします☺️

この絵画に中心にある枯れ果てた木の幹は絶望を表しています。今のあなたにとっての「ペニンナ」は何・誰ですか。その「ペニンナ」によって刺激されてしまっているのはどのような渇き・望みですか。
全ての思いを神の前に、ありのままに注ぐことをもし躊躇しているとしたら、それはなぜですか。それに対してイエス様はなんと言われていると思いますか。
神の愛が注がれ、希望が螺旋する姿が絵画の上下を行き来きする波で表されています。すでに十字架の上で明らかにされ、復活されたイエスキリストによって今もなお注がれている神の愛が「私たちの心」に注がれていることを心から信じることができたら何が変わると思いますか。

枯れ果てた木の幹から十字架が背を伸ばし、その姿が花で満開であることに気づかれたでしょうか。イエス・キリストは実際に復活されたからこそ、私たちのイエスキリストに対する信頼は失望に終わることがありません。私たちが今日、イエスキリストに委ねる(信頼する)ことができることは何でしょうか。そこで魂の安息を見出してみませんか。
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