愛は人のした悪を思わない?
- Keiko Yamada
- 6月18日
- 読了時間: 3分

Rooted, 2023 (愛のシリーズの9枚目)
山田桂子
アクリル画
24 x 24 inch
私たちは一日の中で、実にさまざまなことを考えます。昼ごはんに何を食べようか、昨日友達が電話で言っていたこと、自分の夢、責任、願望…数えきれないほどの思いが頭を巡ります。その絶え間ない思考の流れの中で、「恨み」や「憤り」がふと現れてくることがあります。些細なことから大きなことまで、誰かの言葉や態度、あるいは言われなかったこと、してくれなかったことに対して、私たちはいつの間にか恨みを抱いてしまうのです。
しかし第一コリント13章5節では、愛について「恨みをいだかない(口語訳)」と記されています。
その他の訳では、次のようにも表現されています:
人のした悪を思わず(新改訳)
人に恨みをいだかず(リビングバイブル)
恨みを抱かない(新共同訳)
私たちは日々、誰かや何かについて思いを巡らせています。それは意識的であれ無意識であれ、心に深く染み込むことがあります。そして、そのような思いと同じように、「恨み」もまた私たちの心に根を下ろすのです。
この絵画《Rooted(根づく)》は、まさにそのような「恨み」が私たちにどのような影響を与えるのかを表現しています。
右側:恨みに根を張った魂。恨みを思い続け、それに支配されている。
左側:恨みを手放した魂。心の中にそれを根づかせることを拒んでいる。
けれども正直なところ、私たちの中で「まったく恨みを持っていない」と言い切れる人はいるでしょうか?多くの人が知っているように、恨みはまるで毒のようなもので、自分自身にも、周囲の人々にも悪影響を及ぼします。
では、その恨みから私たちを解放してくれるものは何でしょうか?
私は、それは「神のあわれみ」をどれほど深く理解しているかにかかっていると思います。
単なる知識として知るのではなく、個人的に受け取り、日々体験することによってこそ、それは恨みに傷ついた心にとっての「真の癒し」となっていくのです。
実際、神のあわれみは、神を信じていようといまいと、すべての人に日々、絶え間なく降り注がれています。しかし、それを「自分のもの」とするには、私たちがそれを認め、受け取る必要があります。
この《Rooted(根づく)》という作品は、実は《Mercy(あわれみ)》というもう一つの作品とつながっています。《Mercy》では、神の三位一体のあわれみを、三つの色で表現しました。

青:御父のあわれみ
赤:キリストの血によって流されたあわれみ
緑:御霊のあわれみ(私たちのために日々とりなしてくださる)
《Rooted》では、その三色がキャンバスの一方の角から他方へと流れ込み、両方の「思い」の上に注がれています。それは、神のあわれみが、恨みや苦々しさのあるところにも、ないところにも、等しく注がれていることを思い出させてくれます。
私たちの中には、実際にとてもつらく、理不尽で、起こるべきではなかった出来事から来た恨みを抱えている人もいるでしょう。しかし、たとえ正当な理由のある恨みであっても、それはやはり魂を蝕んでいくのです。最終的に正しく裁かれるのは神です。そして、私たちのどのような恨みも癒すことができるのは神のあわれみです。
だからこそ、もし私たちの心の中に、気づかないうちに恨みが根付いてしまっていたとしたら、神のあわれみによって徐々に癒され、豊かないのちを受けることができますように。
従って、これは、人の意思や努力ではなく、神の憐れみによるものです。
ローマ人への手紙9章16節
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