近年、コンビニ等で些細なものを常習的に万引きして逮捕される高齢者の話を聞くことが珍
しくありません。「どうして何度も万引きを繰り返すのか?」という質問に対し「捕まって刑務所に入ったら、とりあえず食べていけるから、捕まりたかった」と答えるそうです。現在、刑事施設 (刑務所) には、 福祉サービスが受けられず、生きるためにやむを得ず、些細な犯罪を繰り返し、衣食住、医療の心配をしたくない人が大勢収容されている現実があります。刑事施設の福祉施設化が問題視されています。
そこには様々な要因があると思いますが、国をあげてこの現実に対し早急に対処すべきであ
ることは言うまでもありません。しかし、外側の環境だけではなく、内側にも要因があることは否定できないでしょう。そのような行動に至るには、心理的な問題も要因として大きくあるからです。そこが解消されなければ外側の環境を整えても同じことの繰り返しになるのではないでしょうか。
心理的要因としては、経済的不安、健康不安(体力の衰えと病気への不安)、死への恐怖、
問題の抱え込み(家族や友人に頼りたくない)、頑固、疎外感、あきらめ等があると分析され
ています。これらの心理的要因については、たとえ外側の環境が整えられても、再び襲ってくる問題であり、きりがないと言えます。
「刑務所に入りたい」という気持ちは、さまざまな心配に疲れ切り、それを人任せにしたい
ということです。そのためには自由が奪われてもよいと思うほどなのです。このように、全てを人の言いなりになって頼り切り、自分自身の考えで行動しないような性質のことを「やっこ根性」または「奴隷根性」と言います。犯罪に手を染め「捕まえてくれ」という開き直りとも思える行動は、生きることへの不安や心の奥底にある無力感、主体性のなさから生じる奴隷根性が根底にあるのではないでしょうか。

旧約聖書の預言者エレミヤが活躍した時代、イスラエルの民は、まさに奴隷根性に振り回さ
れていました。民は現実のエジプトの奴隷生活から解放された後、乳と蜜の流れる約束の地カナンが与えられたにもかかわらず、創造主の神を忘れ、偶像の神であるバアル神を礼拝しました。その礼拝方法は、小児を生贄として捧げたり、丘の上の木の下で公に淫行を行うという堕落ぶりでした。約束の地カナンで民の生活は豊かになったのですが、今度はその豊かさを失いたくないという「心配」に苦しんだのです。先行きを心配するあまり、先住民の偶像を崇拝し、小児の生贄や淫行を繰り返し、偶像の神であるバアル神の奴隷となってしまいました。
イスラエルの民の歴史を見ると、自由な民とされた時からその兆候はありました。出エジプ
トの後、荒野で食料や水がなかった時、目に見えない神を信頼することができず、飢え死にするぐらいなら奴隷の状態に戻ることを何度となく望み、リーダーのモーセを困らせました。しかし、主は天からマナを降らせ、岩から水を出し、40年間彼らを養われたのです。その後、約束の地カナンに入り、祝福の中で民は、食べて、肥え太り、そこから転落がはじまりました。民は神に逆らい、反逆して、神の律法を投げ捨て、預言者たちを侮辱し、殺しました。エジプトでの奴隷状態から解放され、主体的に生きるための自由を与えられたにもかかわらず、偶像に心惹かれ奴隷のように支配されることを選んだのです。創造主を軽んじ、偶像の奴隷となりました。そこで神はイスラエルの民を敵の手に渡たされ、苦しめられました。それがバビロン捕囚です。バビロン捕囚は奴隷根性に支配された結末とも言えます。
そんなイスラエルの民はその出来事を通して十分に学びました。70年後バビロン捕囚から解放され、帰還した後、民が真っ先に願ったのが、二度と奴隷状態に陥らないことでした。バビロンの支配(奴隷状態)から解放されても、再び目先の恐怖(心配)に襲われ、次の奴隷状態を生み出しかねないと考えたからです。
古今東西、人間には解決することができず、誰しも心配・恐怖を抱くものがあります。それ
は「死」です。人は皆「死」に支配されています。「死への恐怖」はいくら消そうとしても決して消しさることができず、人々を支配します。誰しもがこの件に関しては心の根底にある奴隷根性が出てきてしまうのではないでしょうか。しかし、イエスキリストはその支配、すなわち「死の力」から私たちを解放してくださいました。
そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、
これらのものをお持ちになりました。
これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、
一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。
ヘブル2:14、15

信じるものは死の奴隷から解放されています。ここに「真の自由」があります。
真の自由を得た者へ新約聖書のガラテヤ人への手紙でパウロは次のように言っています。
キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。
ですから、あなたがたは、堅く立って、
再び奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。
ガラテヤ5:1
人生に起こるさまざまな問題は、確かに私たちを苦しめますが、それ以上に私たちの内側に
ある「恐怖と心配」という問題は私たちを心身ともに弱らせ、自由を奪い、思考を止め、無力化するものだと言えます。こんな心配を抱えるなら、いっそのこと....と自分で考えることをやめて、何かに支配されたいと願ってしまいやすくなります。
しかし、創造主を信じる者は、究極の問題である「死の恐怖」からすでに解放されていま
す。主イエスキリストを信じる信仰によって、真の自由を得ることができた時、私たちは「奴隷根性よさようなら」という言えるができるのではないでしょうか。
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ぶどうの木国際教会
ハワイホームチャペル
加藤 あや子
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